亊を成しえたという思いに酔った入鹿には、宝皇女の策謀や旻の学堂で共に学ぶ鎌足の動きなど知るすべもない。ただ斑鳩の夜襲で危うく斬られそうになった入鹿を助けたスジアという不思議な女人のことが頭を過った。
「父上、私は大王になります」法興寺に目を向けたまま入鹿がつぶやいた。
驚いたように蝦夷が入鹿を見る。朝日を受けた顔は歳よりはずいぶん老けて見える。蝦夷はその横顔にはっとした。転がりだした車輪のように勢いを増し、もはや制御することも出来ずに坂を下っていく息子の姿がそこにあった。蝦夷は言葉を失い深い悔恨の淵へと引き込まれていった。そして入鹿の母ハヌルの顔が浮かんだ。新羅の皇族ハヌルは人質として倭国につれてこられ入鹿を産むとすぐに息を引き取った。母のことを入鹿は知らされてない。忌まわしい出来事があったが詳細は伏せられ、入鹿は乳母に育てられた。過去の惨劇が蝦夷の脳裏に浮かんでくる。蝦夷はそれをぐっと心の深奥に押し込めると、また法興寺に目をやった。集めた落ち葉を燃やしているのだろうか煙がたなびいて初冬の伽藍を包んでいった。